吐露サーモン

面白かったこと、昔の思い出などを女々しく語ります

陰キャ 陽キャ論

所属しているコミュニティがどうでもいい(他にもコミュニティがある)みたいな状態のとき人は豪快になり、なりふり構わず行動しがちである。

すなわち態度がでかくなる。(田中泰地 1998.6~)

 

 

 

 

 

 

大学生はこれまでになく活動範囲が増大し、所属するコミュニティ数が増える。

そして複数のコミュニティは人間関係の余裕になりうる。

一つのコミュニティで破滅しようとも代替コミュニティが居場所としてあるからだ。

この余裕を手にした者の行動が常軌を逸するのは想像に難くない。残機99のマリオで操作が雑になるのと同様である。

こうした機序で大学デビューの生き方が雑なボケが大量発生する。いわゆる厄介陽キャである。

 

 

陽キャの武勇伝 ~俺たちこんなことやっちゃいました!笑~ みたいなヤンチャエピソード・講義中にガチャガチャ騒ぐ・食堂で奇声を上げるなどの行為は、彼らが豪快で心臓に毛の生えた快男児だからできたのではない。

かれらが人並外れた行動をとる、あるいはとれるのは、食堂も講義室もある一つのコミュニティに過ぎず、そこで失敗しようが他のコミュニティに余裕である仲間がいるからだ。彼らは小心者の私と何も変わらない。

 

 

陰キャについても同様のことがいえる。

人付き合いが苦手な人間は複数のコミュニティをうまく渡り歩くことができず、一つのコミュニティに拘泥することになる。そして当然の帰結として保守的となる。そこ以外に自分の居場所がないのだから当然だ。残機1のプレイとはそういうものである。

そしてそんな閉鎖的な思考の澱が陰キャ陰キャたらしめる。

度胸がないから陰キャなのではない。コミュニケーション能力が絶無ゆえ陰キャなのである。

 

 

 

 

 

 

以上、度胸のない自分を肯定するための悲しき駄文でした。

上記は多分に私の私感であり、侮蔑的に陽キャと呼称する人の中にも本当に肝の据わった人間もいるでしょうし、実際に知り合いにもいます。逆もまたしかりです。

 

 

 

映画を見たい

なんとなく映画を見る余裕がないんだよなーと終活にかまけて映画視聴を渋っている私であるが、これが詭弁であることは自覚している。

 

そもそも人生において余裕のある瞬間など一秒たりともなかった。少なくとも思春期以降には。

常に何かに追われていた気がする。

部活や勉強などのルーティンに圧迫された私的時間の中から、現在ではさらに就活やラジオを聞く時間にボーっとする時間、飲酒、自慰に空想にと大忙しである。

何かを選択することが、これら行うべき行為のどれかを切り捨てることでしか成立しないのは恐ろしく、映画視聴に際して二の足も三の足も踏んでしまうのは仕方ない。

 

パトレイバー2 南雲姐さん雑感

映画の中で不可逆の流れを見た瞬間が誰しも一度はあるのではないだろうか

 

しなの川で、由美かおるが傘をぶん投げるシーンだったりと、映画の流れを決定づけて不可逆のものにしてしまうシーン。タクシードライバーでは銃を入手するシーンだったりする。

 

 

ではパトレイバー2において、流れの決定づけはどこで行われたか。

それはベイブリッジへのミサイル攻撃でも、幻の爆撃でも治安出動でもなく

 

南雲しのぶと柘植との接触シーンだったと思う

 

 

このシーンには “流れ” を意識づける要素が多分にあった。

降りしきる雪。時間の流れを示す電車。流れ続ける河。そしてそこに揺られる南雲。

 

河に揺られるということは、柘植との遭遇タイミングは南雲にある程度意識されてたんじゃなかろうか。五分だったのか10分だったのか。その間南雲は何を思ったのか。

在りし日の柘植との思い出の回顧だったのか。柘植を射殺する覚悟だったのか。はたまた後藤のことが過ぎったのかもしれない。

 

しかし 柘植は南雲を拒絶し、エンジンを吹かせ河を疾走。逃走していった。

 

南雲は拒絶された。

このシーンが象徴したのは、流されるままに生きる日本国民との離別であったのかもしれない。

 

パトレイバー2の流れはかくして決定づけられ、各々の役割が再確認され、強調された。

 

柘植のテロルはその本格的な攻撃性を備え始め、南雲は柘植、ひいては国家権力を止めることになる。

 

 

 

パトレイバー 押井守

篠原遊馬 - 古川登志夫
泉野明 - 冨永みーな
後藤喜一 - 大林隆介
南雲しのぶ - 榊原良子
香貫花クランシー - 井上瑤
太田功 - 池水通洋
進士幹泰 - 二又一成
山崎ひろみ - 郷里大輔
シバシゲオ - 千葉繁
榊清太郎 - 阪脩
実山 - 辻村真人
松井刑事 - 西村知道
海法部長 - 小島敏彦
福島 - 小川真司
片岡 - 辻谷耕史
テレビの天気予報レポーター / 政府広報ナレーション - 林原めぐみ
方舟の篠原重工スタッフ / ウェイター / 特車2課の整備員 - 子安武人
暴走レイバーの運転手 - 立木文彦

 

作画監督 - 黄瀬和哉
原画 - 井口忠一、戸部敦夫、水村良男、岸田隆宏、村田俊治、武田一也、渡辺純夫、大川弘義、荒川眞嗣、郷敏治、大島康弘、阿部晃嵯詩、菅沼栄治、吉田英俊、村田充範、松原秀典後藤隆幸、福田佳祐、竹内敦志黄瀬和哉奥田万つ里沖浦啓之

Wikipediaより引用https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E5%8B%95%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC_the_Movie

 

 

 

 

そうそうたるメンバーですわね

黄瀬和哉さんってイノセンスでも作監してなかったっけ

 

ゆうきまさみって鉄腕バーディー

デコード大好きやった。新房昭之じゃなくて、、新世界よりのエンディングとかNARUTOのOPやったりやってた人が多分作監かなんか持ってたはず(コミケ本あるのにど忘れした)

 

 

 

レイバーっていうガンダムみたいな巨大マシンのOS組んだ人がバチコリいかれてて、ウイルスを書き込んでいたらしいことが首都圏8000台のレイバーのうち八割にそのOSをインストールした段階で判明。そのウイルスが起動すると、レイバーが操縦士を無視して自律稼働することが判明し、やべーよやべーよと焦る特車二課。土木建築などのインフラ産業をレイバーに全任せしていたため対策もにっちもさっちもいかず、、、

 

なんでそんなウイルス組んだの?ウイルスの発現条件は??てなストーリー

 

 

鳥のいない鳥かご、旧約聖書の文言、バベルの持つ意味。よくわかんねー!!

レイバーに役割を奪われた土建屋のにーちゃんだったり、クソ汚い下町の底辺だったりの解放という意味での鳥かご?←絶対違う

 

でもあんまり世界を変えてやろう!っていう意図を持った犯行ではなかった気がする。世界はかくも脆弱で曖昧なシステムの上に成り立ってるんだよ。と、そのことを人々に提示するだけして放置。不安を煽ってただけだし。

だってレイバー無しの生活ってもうあの世界では成り立たないでしょ。レイバーやべぇよって言われても依存するしかないし、、、ってそういえばこの社会も原発核兵器っていう危うさに依存して保たれた社会でしたね。 “ 奇遇にも “ パトレイバー世界とよく似た境遇の我々に対しての注意喚起が目的だったりして。。。

 

 

押井守聖書からの引用多くない??これからゆっくり考察サイト巡回して2周目見ますね。

 

 

あとは全体的にEVAを感じました。BABELの文字でモニターが汚染されるシーンはイロウルセントラルドグマ(生物の用語ですが)とかそのまま使われてるし、ラミエル戦でジオフロント内部に落下する高層ビルとかのシーンも割とそのまま。ゼルエル戦時の初号機が射出シャフト上でバトるカットも似てましたね。

OVAかなにかで庵野秀明が描いてたし影響は受けてるのかも

 

劇パト1が1989

エヴァが1997やし

 

結構面白かったけど幻の爆撃を期待してたから拍子抜けですかね。パト2は明日見ます。

 

 

あ、タチコマの原型がでてきたり、序盤の多脚戦車とかがカッコよすぎるのでそこは大満足

ジョーカー観た!

話題沸騰、大学でも見に行ったやつがチラホラのジョーカー、見てきました。

 

ヒース・レジャーが自殺して〜”  “銃乱射で観客が〜“

劇場大学地元、みんな言ってた。うるせぇよ死ね。

 

前評判で暗いだの辛いだのという事をさんざ聞いて覚悟してたけど、実際はスッキリしたのでよかったです!(読書感想文)

 

 

あらすじ

ジョーカー  母親が精神病罹患者、(妄想性障害と人格障害、統合失調も?)片親、貧困、脳機能障害などなどの、ハンディキャップで作った煮凝り。生ける逆境。

そんな状態でも、掃き溜めの街の最底辺でコメディアンとして人を笑わせるという情熱を持ち、母と共に糊口を凌ぐ主人公。

そこに追い打ちをかけるエピソードの数々

そんな彼に差す僅かな光明。薄明かり。

それを遮る確かな“予感”と、ダークナイトで見た彼の前日譚であるという破滅への“必然性”が横たわった常に重苦しいストーリー。

 

果たして主人公はどのようにしてジョーカーになるのか。。。

みたいな映画。

 

ちなみに、ダークナイトのような世界精神型悪役(伊藤計劃のブログを見てください)としてのジョーカーはいないので、それを期待して見に行くことはやめましょう。

むしろ万引き家族っぽくて、底辺に生きる人間の狂い様を描いてる。

 

じゃあ狂うってなんだ?って話で、この映画のテーマもそれになります。

 

ゴッサムシティでピエロの大群が壊せ奪え殺せのやりたい放題やってる最中、上流階級は劇場でチャップリンを観てる。

チフスやら貧乏やらで人がバッタバタ死んでる中、ジョーカー憧れのコメディアンは、舞台から出ずに歓談をして人を笑わせる。

 

狂ってるのは本当に私かな?違うよね!!

 

正気と狂気、コインの裏表のように隣り合わせ。でも決して交わらない。

マジョリティが常に決定権を持ち、多数者があくまで正気となされる。こんなものは狂気の所業であると。

それはおかしい。私が狂気と正気の区別をつける新たな価値基準になろう。

正気なのは私で、お前らが狂気だ。

ベロニカは死ぬことにした での

ここ(精神病棟)と外の人間、狂ってるのはどっちなの?(うろ覚え)と似てますねぇ(大好き小説)

 

この思想をもとに、価値観を転倒させること。つまり、ゴッサムシティを狂気もとい正気で染め上げる意志が固まるわけです。

 

そして、ゲストとして出演した番組でその旨の演説をした後、MCのロバート・デ・ニーロ(先述のコメディアン)を射殺するに至ります

 

放送されたジョーカーの思想に呼応し、上流階級へのルサンチマンを爆発させた貧困層が蜂起。街や警官隊はボコボコにされ、われわれ観客の勝手知ったるロアナプラ以下のクソ民度ゴッサムシティがスクリーンに現れる。

そして、ブルース・ウェインの両親がお約束のように射殺されることでミッション達成。ログボGET。

 

ジョーカー、ゴッサムシティ、バットマンと役者が揃い映画は完成する。

 

街を焼き、車を壊して警官を殺しながら狂喜乱舞する住人。ジョーカーの、コメディアンとして人を笑顔にする夢が狂った形で叶ってしまうというダークナイトZeroなオチ。

 

 

 

 

 

個人的に狂気に触れた作品がこの上なく好きなので、例に漏れずこの作品にも興味はもてた。

が、なぜ狂気が生まれるかを描いたジョーカーよりも、狂気がもたらすカオスを描いたダークナイトの方が面白いのは何故だろうか

 

それは恐らく、ジョーカーだけでなくブルース・ウェインが孕む狂気をすらダークナイトは描けていたからだ。

コスモスを希求しながらも、やはりその象徴たる警察とは相容れない。カオスをもたらす大きな要因であるという皮肉に蝕まれた正義の人。正しくダークヒーローである。

そしてジョーカーもまた、完全なカオスが到来すると張合いがなくなってしまう。そのためブルースとジョーカーは相互に依存し、共生関係を営んでいる。

どちらかの死がもう一方の存在意義を奪ってしまう狂ったラブストーリーなのだ。ルパンととっつぁん。ブルースとジョーカー。

 

そういう意味では、今作はジョーカーの対極として社会を置いてしまったのが問題だったのではないだろうか。これではただの社会挑戦型犯罪だ。

また、個人的にはジョーカーが持つ狂気は先天的なものであって欲しかった。

虐待ネグレクト愛情の欠如やトラウマ体験など小児期の影響が狂気と密接に関係するのは周知であるが、そのうえでなお、ジョーカーだけには特別なものを孕んでいて欲しかった。暴論ではあるが、神話性を持っていて欲しかった。

 

 

 

 

 

 

雑感

 

フォントというか、テキストの挿入がデヴィッド・フィンチャーリスペクト

 

ヴィランのエポックメイキングなジョーカーの人格形成にはやっぱり触れないで欲しかったかなぁ。

 

序盤ひたすら暗い。暗すぎてたまに笑えすらした

 

ダークナイトが良すぎて比べてしまう。偉大すぎた

 

俳優の人の体が凄い。肩関節が異常に柔らかいのか、腕の位置が変なことになっててちょっと面白い

 

映画に3回登場した“階段” これがとてもいい演出だった

 

おばあちゃんのお色気シーンがある

 

これから見に行く人は、ダークナイトを期待しないこと  舞台装置としての“階段”  俳優の体  に注目すると面白いかもです

 

 

 

 

 

カードキャプターさくらを見て欲しいかもー!

人生ブレイカーなどと揶揄されるカードキャプターさくら

かくいう私もテスト期間にドハマリし、数多の単位をブレイクされた被害者である

 

今回はカードキャプターさくらの魅力を1ミリでも感じてほしい。そんな想いで駄文を連ねていくとします。

 

カードキャプターさくらの何が良いのか??

 

山といえば川。1+1は2。木之本桜が可愛い。定理である。脊髄反射である。

 

 

つまり圧倒的に主人公が可愛いのである。

 

 

アジアの純真。目に入れても間違いなく無痛。大人の思い描く理想の女子小学生ここにあり。理想の概念が受肉木之本桜なのである。

 

アリストテレスは哲学の究極の目標として、イデアを掲げた。しかし、哲学とは底知れぬ学問である。多数の学徒がその叡智を数千年にわたり凝らしても、普遍の真理は未だ獲得されていない。が、しかし、カードキャプターさくらを視聴した方には頷けることであろうが、イデアは既に存在したのである。賢明な読者諸君の中にはお気づきの方もいるだろう。

 

つまり、世を照らす太陽たるイデアとは、他でもない“木之本桜”なのである。

 

哲学的探究心旺盛の大きなお友達が、この突然のイデアの出現に驚嘆し、また嗚咽を漏らしながら崇め奉り熱狂するのもうなずけることだ。私も含めて。

 

 

そして、そんなイデアたる主人公を引き立たせる名キャラが存在する。可愛い。

 

さくらの守護獣であり、本作のマスコットキャラクターであるケルベロスがこれにあたる。

 

このケルベロス、厳しいのは名前だけで、風体は狂おしいほどに可愛い。空飛ぶ小動物。しかし、やることはと言えば、ゲームとお菓子を貪るさくらの悩みの種。加えて関西弁を使うニートである。ギャップが非常に愛らしいですねぇ。見た目マスコット中身おっさん。愛らしすぎる...

 

そんなニートも、クロウカード出現に際しては攻略のアドバイザーとして八面六臂の大活躍をする。要所要所で的確なアドバイスをさくらに与え、カードの回収に大きな助力をするのだ。縁の下の力持ち。汚名返上。

 

さらにケルベロスの活躍は本編内にとどまることを知らず、アニメ本編終了後のミニコーナーにおいても見られる。このコーナーでは、さくらのコスチューム解説が知世ちゃんの盗撮映像を添えてねっとりと行われ、ケルベロスの趣味嗜好、性的な傾向すら伺える場となっている。

 

持ち前の関西弁で面白おかしく解説をし、テレビの向こうに愛想と笑顔を振りまいていた。

 

我々視聴者としても、可愛いさくらの止め絵。大道寺知世がそこに込めたフェチズム(衣装は知世ちゃん謹製)。そして、当然ケルベロスの活躍も見ることが出来る3度おいしいコーナーであった。が、クロウカード編の中盤でそのコーナーは打ち切られてしまった。(本気の号泣)   

 

加えて、さくらカード編(3クール目)の序盤においては、クロウカードがクソの役にも立たないこと、自分の上位カード(ケルベロスはクロウカードについてのみ有識である)についての知識がないことでアドバイザーとしての立場も失墜、不遇のガチニート生活を送っていた。悲劇である

 

 

 

 

魅力的なキャラクター、名物コーナー(消滅)の紹介をしたが、もう一点素晴らしいものがある。それはストーリーラインである。

 

前提として、登場人物に悪意はない。

つまりどういうことか、、、

全てのストーリーが、さくらを成長させるためのものであるということだ。

 

 

え、魔法使って戦うんでしょ?

 

派手に戦ってるじゃん

 

 

こう思われた方もいるだろう。恥じて下さい。

無知は恥ですよそこの貴方。

 

敵は確かに存在する。しかしそれは、成長を促す障害物としての敵である。青春における恋。挫折。受験。

イニシエーションとしての障害物。それがカードキャプターさくらにおける敵。

障害なくして学びはなく、つまり成長もない。

カードキャプターさくらにおける敵とは、蔓紐で行うバンジージャンプのようなものだ。

 

さくら中心の世界。コペルニクスを超える大転回。さくら中心のコスモ。

愛という理想を掲げるに相応しい桃源郷である。移住したい。モブでいい。小狼くん。。。

 

追記するが、全キャラガチで愛おしい。特にメイリンちゃんは号泣必至のキャラクターなので注目して欲しい

 

 

 

カードキャプターさくらの真髄の一部でも上の文で伝わっていれば幸いであるが、無論不十分である。

映像と文章との狭間はそれほどに深く大きい。

なのでとりあえず第1話を見てほしい。第1話だけでいいので見てください。好きになります。

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、Googleで«さくらたん»と検索をかけるとAKB48宮脇咲良がでてくる。誰だお前は